財布をくわえた裸の犬

私の事務所のすぐ近く,商工中金ビルの角に小さな彫刻があります。「財布をくわえた犬(どうしようかな?)」という故藤原吉志子氏の作品です。

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「財布をくわえた犬(どうしようかな?)」

胴長短足大きな顔をしたコーギーが,落ちていた財布を拾ったのか,それとも飼い主におねだりして咥えさせててもらったのか。がま口を咥えたまま途方に暮れたように固まっています。犬を飼っている人なら「あるある」と言ってしまう情景ですね。 屋外彫刻は風景と調和しつつ,彫刻が好きな人にも,彫刻に興味のない人にも受け入れてもらえる配慮が必要な芸術です。

ところが,美術館に置くような作品を街なかに置いてしまっているのが,現状では少なくない気がします。その最たるものは裸婦像でしょう。日本にはそれを街なかに飾ってきた伝統はありません。ですから,伊勢佐木町モールの入口近くの女性像は,上半身裸の不自然なポーズが可哀想に見えますし,シルクセンター前の「絹と女」や馬車道のアイスクリームの像は,美術館にあれば別なのでしょうが,街なかでは却って風呂場の風景に見えてしまうのは不思議です。それはある意味,作品に対しても失礼です。

誰もそんなことは気にしていないというのであれば,それこそ彫刻を置いた意味もなにもなくなってしまいます。屋外彫刻は街のシンボル的な意味もあります。芸術を気取る必要はないのです。シルクセンターには大きな「蚕」,馬車道には器に載ったアイスクリームでもいいではないでしょうか。芸術性が高いかどうかは知りませんが,考えただけでも楽しくなってきませんか。

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風景に調和しているかちょっと心配な事務所の看板


実は最高裁判所の前にも千鳥ヶ淵公園にも裸婦像が立っています。話題にもなりませんが,裸婦像さえあれば,芸術的で文化的な都市の仲間入りをしていると思い込んでいると勘繰りたくもなってきます。

いや,もしかすると,こんなことを考えているのは私一人で,日本人は心から裸婦像が好きなのかもしれません。確かに「財布をくわえた犬」も裸ですものね。

(神奈川県弁護士会HP「弁護士コラム」2016/6/10掲載松井)


 わたしの園芸事始め(激闘編)

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 「結膜炎になったけど,お花みたいでしょ。」

園芸に目覚めて早や7年。我が家はバラだらけとなった。土があればバラを植え,場所があれば鉢を置いた結果だ。水をやるだけで1時間は超える。葉や蕾の様子をチェックしたりすれば,事務所に出るのは昼近くになる。まさにバラの下僕である。

そんな私の大事な仕事は彼女たちを守ること。病害虫はバラの宿命だが,去年は薬剤散布が少なすぎ,ほとんどの株の葉が落ちるという惨憺たる結果に終わった。 今年の準備は早かった。先ず,インターネットで二十数種類の薬剤を購入し,ゴーグルにマスク,ゴム手袋で完全装備。3月初めから電動噴霧器で薬を撒きまくった。最初は葉が柔らかく薬害がでたが,暖かくなってくると自然に治まった。5月になり,バラたちはたくさんの葉を揺らし,美しい色と香りで私の努力を祝福してくれたのである。

2週間ごとにせっせと薬を撒くバラの下僕は,夏場になると顔だけが日に焼ける妙な姿になったが,病気は出ない。汗まみれになりながら「やった。ことしはいける」と確信するのも無理はなかった。

ところが,夏の大型台風がそんな期待を一瞬にして吹き飛ばした。天候不順の日が何日も続いたが,それなりの対策はしてあったので,株の被害は大したことはなかった。予定では,薬のシャワーで元気いっぱいのバラたちは何事もなく成長を続ける筈であった。

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  「パパ,ユズの香りがいっぱいだね。」

晴れ間が見えたある日,葉に浮き出た黒いシミを見て私は戦慄した。病魔,黒点病の再来である。しかも葉の裏側には粉のようなダニ軍団がびっしり。葉が緑から黄色っぽいまだら模様になっている。

原因は雨と風が薬剤を流し去り,定期的な散布ができなかったためだ。私は必死になって病葉を毟り取り,薬剤を散布したのだが,蒸し暑さで弱ったバラに被害は広がるばかりとなった。勝機は去ってしまったのである。

冬になると悪魔どもも冬の眠りにつく。戦いは一時休止である。でも奴らは必ず動き出す。私も戦い続けるつもりである。この戦いに勝利するまで。


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    平戸に同期の弁護士と一緒に行ってきました。懐かしい感じがする街だな。


(神奈川県弁護士会HP「弁護士コラム」2014/11/26掲載松井)


 「すね」と「ですんで」の未来

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   「わたしも英語を覚えなきゃ」

ここ最近,英語教育が極めて重要視されている。小学校で英語の授業が始まり,大学入試には必ず英語が入っている。テレビコマーシャルは英会話学校の花盛り だ。確かに社会のあらゆる場面で国際化が進行し,英語は有力な国際語としてその利用価値は無視できない状況になっている。

希望する大学に入るためには,まず英語でいい成績を取らなければならなくなり,逆に英語ができないようであれば,ランクを下げて進学しなければならなくなっている。

しかし,英語をそこまで特別扱いしていいのだろうか。日本に住む外国人は大学も出ていないのに,凡そ流暢な日本語を話しているではないか。つまり英語は学 問というより,慣れによって向上する技術に過ぎない。環境さえ与えられれば,どんな人だって英語ぐらいは理解できるのである。

英語圏の人は,外国語の勉強に血眼になる必要もなく,自分の好きな学問やスポーツ,趣味に全力投球できるのだ。明らかに日本では,英語以外の方面へのエネルギー配分がおろそかになり,結局,子どもたちの才能を伸ばす可能性を奪う結果となっている。

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  「なんて書いてあるかわかんないや」

そして最も憂うべきことは,物理,化学,医学,文学,法学などの素晴らしい能力を持った人たちが,必ずしも学校英語が得意ではないと言うことだ。英語がい かなる学問にも優先して必要視されてしまうと,せっかくの才能の原石が,輝く機会も与えられないままこの世から葬り去られてしまうことである。

最近の会話は,「長友のゴールは最高っすね」とか「返事はあとで連絡しますんで」という,「・・すね」と「・・すんで」が大変多くなっている。「ですね」 も「しますので」も言えない人をそのままにして,有為の若者を見捨ててしまうような英語偏重の教育は,未来の日本をどこに向かわせるのだろうか。


(神奈川県弁護士会HP「弁護士コラム」2014/02/25掲載松井)


 わたしの園芸事始め

わたしの趣味は園芸、特にバラが中心です。

ところが僅か7年ほど前までは、植物を育てたこともありませんでしたし、土を触るのも大嫌いだったのです。

当時の庭には、マキやモミジ、マツやマンサクなどが植えられていたのですが、それは亡くなった父の趣味でしたから、何の興味もなかった自分には、剪定も雑草取りも極めて面倒なことでした。そこで、木を抜いてレンガを敷き詰め、植物そのものをなくしてしまうことにしたのです。

ところが、庭を全てレンガで塞ぐわけにもいかず、外周部分と2か所ほどの丸い地面を土のまま残すことになりました。

レンガを敷いた地面にぽっかりと空いた空間は、何か植えないとすごく変でした。そこで、生まれて初めて園芸店に行き、ガザニアを買って植えてみました。適当に穴を掘って埋めただけですから、あっという間に枯れてしまいました。少々がっかりしたものの、改めて別の植物を買っては植えるのですが、これがまたすぐ枯れる。妻から「園芸店では元気なのに、貴方が植えるとみんな枯れる」と言われてしまう有様。何度か同じことを繰り返しているうちに、樹木なら簡単には枯れないと思い、アカシア(成長が早くて楽そうだった)を植えたところ、確かに元気に伸びていく。1年でずいぶん大きくなったと思っていたら、台風が来た時に根っこから倒れてしまった。唖然としましたが、間違いなくそれまでの苦労は水の泡。

この時が転機だったのでしょう。枯れたら植える。倒れたら植える。本も読みだし、道具も揃え。爪に泥が入ろうとナメクジが手につこうと、鋏で指を切ろうと、夢中になってやっていたら、いつの間にか園芸好きになっていました。

庭仕事をやらないですむようにと考えてやったことが、逆に園芸に目覚めさせ、休日は一日中庭にいるような生活になるとは想像もつきませんでした。

園芸から学んだことがあります。それは、これから咲く花のことを想うと、冬場の作業も平気になれること。植物は人に楽しみと前向きな気持ちを与えてくれるのです。

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私の育てたバラ

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私の心から愛してやまない子どもたち


(神奈川県弁護士会HP「弁護士コラム」2013/09/13掲載松井)


 女神テミスについて

当事務所の看板にもありますが,剣と天秤をを持って目隠しをしている女性,テミスというギリシャ神話の女神をモチーフにしております。
最高裁判所などにもテミス像が飾られていて,欧米でもLady Justice(正義の女神)と呼ばれ,法律関係の施設にテミス像がよく飾られています。
天秤は「正義」をはかり,剣は「力」を表し,「剣なき秤は無力、秤なき剣は暴力」(ルドルフ・フォン・イェーリング「権利のための闘争」より)に過ぎず,法はそれを執行する力と両輪の関係にあることを表し,また目隠しをするのは,貧富や姿形などの予断や私的関係から判断が曇ることを回避し,どのような者であれ,法の前では平等であることを表しています。
ですから司法や裁判の公正さを表すものとして,よく使われるモチーフになりました。

実は,このテミスと言われている女神ですが,本当のところ,ローマ神話のユースティティア(Justitia:英語のjusticeの語源)がモデルになっており,ギリシャ神話のテミスではありません。
テミスとは古代ギリシア語で「不変なる掟」という意味であり,ギリシャ時代には,剣しか持っていなかったようです。
また,ギリシャ神話で「正義」に対応するのは女神ディケーになります。
ローマ神話では「正義」の女神はユースティティアで,なぜテミスとして広まったのか不思議です。


※図中の帯に書かれてる言葉はラテン語で「法とは善と衡平の技術である。(ローマ時代の法律家ケルススの言葉より)」の意味です。

(事務局:大場)


 エスカレーターの話

皆さんは,エスカレーターに乗るときにどうしていますか?
左側によって一列に並んで乗っていますか?
夫婦や親子連れのときでも横に並ばず,左側に縦に並んで乗っているのではないでしょうか。右側を歩く人のために空けるというのがその理由のようですが,私には,どうしても合理的だとは思えません。
そもそもエスカレーターは,走ったり歩いたりするのは危険な乗り物です。
あの鋭いエッジの効いた鉄の踏板は,ちょっと転んだだけでも大けがをすることは間違いありませんし,ひょっとすると死に至ることも考えられます。
しかも,エスカレーターを利用する人には,歩くのが不自由な高齢者や障害者がいるだけでなく,荷物を持った人や手すりを掴めない子供もいます。
狭い片側を歩くうちにうっかり転んだり,立っている人の荷物に当たって転倒させたりという危険は大いにあります。
新聞にも,エスカレータの死亡事故が載ったことはご存知の方もいると思います。

いろいろ考えるまでもなく,エスカレーターを歩くのはやめるべきなのです。でも,それだけではありません。
片側だけに人が乗るために,エスカレーターの乗り口には人溜まりができてしまいますが,それは元気に歩ける人のために遠慮するからなのです。当然のように歩いていく人は,知らず知らずのうちに,自分だけがよければいいという利己的な強者のルールに従っているのです。
大げさに言えば,人権擁護とは相容れないルールなのです。
弁護士の中にも,平気でエスカレーターを歩いて登っている人がいるかもしれませんが,案外,人の本当の姿というのは,そんな日常の行動の中に見えてしまうかもしれませんね。

(神奈川県弁護士会HP「弁護士コラム」2012/03/02掲載松井)

 弁護士の敷居は高い?

もっと気軽に相談に来てほしいという話題になると,必ずと言っていいほど,「弁護士の敷居が高い」という言い回しが使われます。
でも,ご存知の方も多いとは思いますが,「敷居が高い」という慣用句は,不義理のため相手に弱みがあって,その人の家に行きづらいことを言うのであって,単に行くのが憚られるという意味ではありません。
店賃を溜めている熊さんが,大家さんを訪ねていけない落語の台詞にぴったりなのです。
そうなると,「敷居が高い」という言葉を法律事務所に当て嵌めて言うことは,本来,何の落ち度もない人をつかまえて,弁護士に弱みがあるかのように言っているのと同じで,実に失礼な話のような気がします。
しかし,最近の司法試験合格者の激増によって,弁護士が街中に溢れるようになりつつあります。これからの社会は否応なく訴訟社会へ突っ走っていき,病気にかかるのと同じように,紛争の当事者になってしまった市民が,弁護士を頼まざるを得なくなる社会環境が生まれるのです。
「貧すれば鈍する」と言います。また「倉廩満ちて礼節を知り,衣食足りて栄辱を知る」とも言います。事務所経営に四苦八苦し,社会的にも経済的にも余裕のなくなった弁護士が,高い倫理観を保持しながら職務を全うしていけるかどうか,私には,正直,自信がありません。
法律事務所は取っつきにくいとか,馴染みがないなどと言っていた時代は終わり,社会のいたるところで紛争が勃発し,多くの人が法律事務所に駆け込む世の中が来るのです。
心配しなくても,いずれは法律事務所の「敷居」はなくなってしまうのでしょうが,それが果たして我々の目指す社会の姿なのでしょうか。

(松井)



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